マハティール氏とマレーシア

マハティール・ビン・モハメド

彼は、1981~2003年と、18~20年に首相を務めたマレーシアの政治家兼医師です。1980年代、日本や韓国の経済成長に学ぶ「ルック・イースト」政策を提唱し、高度成長期をもたらした功績から、「近代化の父」とも呼ばれています。

1953年にマラヤ大学(現、シンガポール大学)医学部卒業後、医務官となるが、のち、開業医になる。1964年下院議員に初当選した。1969年にはラーマン首相と対立し統一マラヤ国民組織(UMNO)を追放されるが、1972年にUMNOに復帰し、1981年にはUMNO総裁、同年7月にマレーシア第4代首相に就任。

ルック・イースト政策とは

ルック・イースト政策は、マレーシアのマハティール首相が。西欧に代わって「東宝を見よ」と提唱した政策です。オランダやイギリスの植民地であったマレーシアは、マレー系国民を優先するブミプトラ政策をとり西欧の発展を見習ってきたが、1981年に就任したマハティール首相は、1970年代からの日本や韓国の高度経済成長に見習っていこうとした。

西欧の国々は、産業革命以来ゆっくりと経済成長を成し遂げたのに比べ日本は、持ち前の勤勉さで、あっという間に西欧諸国の発展に追いつき、終戦間もない1955年か1973年までの19年間には年平均で10%もの成長を続けました。特に、自動車産業、電気機械業、化学工業、造船業などのメーカーが海外からの革新的技術を取り入れ、新しい設備を導入しました。

かつてマハティールは、第二次世界大戦で英国が日本軍にたやすく負けたことに驚き、訪日の際には、日本の急速な経済成長や人々の働きぶりを目の当たりにしました。欧州的な価値観である行き過ぎた個人主義よりも、個人の利益より集団の利益を優先する日本の集団意識や労働倫理に学ぶべきだと提言しました。

日本や韓国はマレーシアと同じアジア圏の伝統的価値観を維持しながら近代化を果たし、西側と真正面から競争していたことに習い、マハティールは独自のスタンスで自国の発展を目指しました。

具体的な政策

①マレーシアから日本に留学生や職人を派遣

過去40年間で留学生8000人以上を含む、約26000人のマレーシア人が教育や訓練のために日本へ派遣されました。留学生の多くは、帰国後マレーシアの政治や産業の担い手として、経済成長を支えています。

②日本企業の進出

マハティールは、税制を優遇することで日本企業を積極的に誘致しました。その結果、従来マレーシアに進出していた日本企業が、電気・電子産業を中心にマレーシアに追加投資を進めたり、関連企業の進出が進んだりと、製造業への日本からの投資が増加しました。現在、日本企業1500社近くが進出し、マレーシア人40万人以上を雇用しています。

ブミプトラ政策

この政策は、マレー人より経済力のある中国人に対して経済活動に加え、民族間の経済格差の解消を狙ったものです。ブミプトラとは「土地の子」という意味で、5.13事件は経済的に優位に立つ華僑に対してマレー人の不満が爆発した結果であり、民族間の経済格差をなくすためのNEPやブミプトラ政策が生まれました。

大半をマレー系が占めるマレーシアですが、勤勉な中華系やインド系住民は経済的に成長した一方、大雑把で楽観的な性格をしているマレー人は、経済的に中華系やインド系住民に劣っています。

マレーシア国内では、異民族どうしはお互いにあまり刺激しないように、各民族同士固まって生活をしています。

マレーシア政府は、この3大民族の生徒を同じ学校で学ばせようと進めましたが、特に中華系住民に反対され、彼らは中華系学校を作りたいと考えていました。このように、中華系やインド系住民はあまり大半のマレー系民族に同化しようとはしていません。

マレーシアとシンガポール

シンガポールは1965年にマレーシアから独立し、急速に経済発展を遂げました。マレーシアのマレー人優遇政策と中華系民族が反発し、シンガポールはマレーシアから追放されたのが独立のきっかけです。

中華系住民を中心に独立したシンガポールでは、中華系住民が大半を占めています。

元々同じ国で民族や宗教などの文化が似ており、マレーシアとシンガポールは良好な関係を維持しています。また、両国の国境には2本の大きな橋がつながり、毎日約6万台の車両が往来しています。シンガポールは、生活水や飲料水のほとんどをマレーシアからの輸入に頼っています。

Reference :
– マハティール・ビン・モハマド, 2013, 「マハティールの履歴書」, (2023年8月17日取得), https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784532168698


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